詩
性とは何か 詩
性とは何か 前 書き こ こに今あげたタイトル、即ちこのテクストの内容が、芸術的創造に対する一種の信仰告白でしかないことを、はじめに言っ て おかなければならない。たとえ、ここに述べることが断定的に言い表わされたにしても、これを一つの弁証論の展開として理解 し てもらいたい。結局、創造者としての仕事の新しい意識は、表現の新しい分野の探究に必ず導くものであると、私は思う。 何
と
も定義のしょうがない〃詩的〃ということばのある一つの使い方がある。たとえば、ある一定のイメージやメロディー、慣用旬 な
どは、時に〃詩的〃であり、得るようだ。この美の特有な感覚は、ある価値が伝統の中で高くみられ、認められることに基づく よ
うだ。ところが作品の特性は、詩的さ(詩的な記号として認められる記号のすべて)としてよりも、詩性(詩的な記号の創造と そ
の使用)の中にある。しかし、すべての芸術作は(先に定義した)詩的であるというなら、芸術作品をメッセージとして扱うこ と
になる。もちろん、これは言語的(詩を含めて)性格のないコード特殊なメッセージを意味している。なぜなら、これらの構成 成
分(伝統の中で、あるいは作家自身により詩的であると認められる記号)は、後に述べるように、構造的に不完全だからであ る。 記
号
論では、記号というものは、定義(F. de Saussure)よ り、
意味するものとそれを通して意味されるもの二側面をもつ単位である。しかし、芸術家(詩人・画家・音楽家)が記号を創造 し
ながら得る詩性(文学性、絵画性、音楽性など)は、この記号の二側面の一つが不完全である詩 に
於ては不明瞭にする。絵画・音楽に於いては明瞭にすることと い
うことにある。 詩
と同様に、絵画も音楽も文(writing)
の
一種である。しかし、本来の意味に於ける吉語を記す文(文字)と、詩性の表現である詩的文(文学文・絵画文・音楽文)とを 区
別しなければならない。この三者を区別するものは、芸術家が使用する村料の違いである。 言語には詩的機能があるというヤ コ
ブソンの断言は適切ではないと思う。この見方によると、詩人の役割は必然的に各日語の探究(制隈された活動)に要約される で
あろう。むしろ、詩は言語を超言語コード(supra-linguistic code)に 変
化させるという万がより適切である。詩人にとって、言語とは、言語的表意作用を不明瞭にしながらメッセージを作る素村でし か
ない。意味するものと意味されるものを瞬間的に分裂させながら、文学性を作る為にことばを使う者が詩人である。(意味する も
のを聴かせる)音声文字と、(意味されるものを見せる)象形文字とは、その文字の違いによりジャンルを異ならせる。故に、 音
声文字を使う文化は(意味するものの不変性に基づく)〃抽象詩〃を、又、象形文字を使う文化は(意味されるものの不変性に 基
づく)〃具象詩〃をより好む傾向があるはずである。その両文化の詩人は、抽象詩、具象詩を思いのままに作りながら、文字に よ
り強いられる束縛を乗り越えることができる(実際、これをよく果たす)にちがいない。日本の現代詩の開化に、萩原朔太郎が 音
楽性をもつ詩作に専念したことは自然なことである。 つ
ま
り、詩人の活動の本質は、前もって均衡を失った。即ち意味するものが意味されるものに勝つ、あるいはその逆である記号から メッ
セージを作ることである。詩に於ては、少なくともすでに述べたような創造の行為がそこにある。それに対し画家と音楽家 は、
それ自体が伝達体系ではなく、象徴体系としての素材を用いる。つまり、画家の紫材は類似(デッサンと対象の相違)をもつ の
で図像的であり、音楽車の素材は隣接(さまざまな周波と強弱の音の連続)に基づくので指標的である。 一
般
に、類似、隣接という対立は、絵画素材と音楽素材との区別をよく表わし、それは言語に於て、相互作用のかたちで詩に前存す る。 一
方、
もし詩の材料が必ず二面(言語的記号)であるならば、絵画、音楽の材料は一面(意義以前の本質)であるということを記す の
は重要であろう。それ故、象徴を生み出す行為は、芸術家あるいは作曲家がその不足面を補う材料から記号を構成することを前 提
としている。絵画の材科に不足するものは意味するものであり、音楽の材科に不足するものは意味されるものである。とにか く、
創造された象徴は詩的価値をもっているにこしたことはない。つまり、その意義に不均衡さがあった方がよいのである。 要
約
すると、創造の過程において、詩人は画家や音楽家とは逆の方法をとっていることを述べておこう。詩人は(言語的)記号の片 面
を不明瞭にしようとし、画家や音楽家は象徴の片面を明瞭にすることを目ざしている。詩人が面家や音楽家と同じとするところ は、
(本来、伝達的又は象徴的である)表意作用の二側面性を〃不均衡にさせる〃役割である。 そ
の
結果として、極端にいえば、絵画は具象、音楽は抽象にしかなり得ない。なぜなら、具象は類似の属性をもち、抽象は隣接の属 性
をもつといってもよいからである。同じ立場から、詩は具象にも抽象にもなり得ない。即ち、詩は両方の属性が交差する場でし か
ない。画車が抽象絵画を描く試み、音楽家が具象音楽(concrete music) を
作曲する拭み、詩人が具象詩あるいは抽象詩を作る試みは、アーテストの能力の原動力となる意志をよくあらわしている○つ
ま
り創造不可能なものを創造することである。 ヴ
ロ
ダルチック・アンドレ (詩
人) イ
ト
ウ・ユミ 訳
ROZO - 1980 Vol. 2 著
者はボーランド出身のフランス人、詩人で東洋語学研究者三 十
六歳。五十年に四ケ月間観光者、五十一年に六ケ月間パリ大学と早稲田大学研究交流生として来日。五十四年には国際交流基金の招待で 約
一ケ年間東京に滞在した。早大で日本語の敬語の研究をし、又五十五年から五ケ年間にわたって行われる日仏合同の「日仏語村照研究」 プ
ロジェクトチーム編成準備などに尽力し、現在パリに在住。パリ大学第七校勤務。東洋語学研究責任者であり、フランス人の奥さんエレ ン
ヌもパリ大学でポーランド語の助教授をしている。 川
端
康成「伊豆の踊り子」、三島由紀夫「憂国」、茶川龍之介「羅生門」などをポーランド語に翻訳。海外のボーランド人向け雑誌 に
「川端康成論」などの評論も表わしている。五十二年に日本の雑誌に「エピステーメー」(朝日出版社・五十二年八月号)に 「先
史時代の記号学試論」を、五十五年雑誌「言語」に「主題から主語へ、そして主語から主題ヘ」の論文を書いている。
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